既読の倫理学
The Ethics of "Seen"
03: なぜ「読んだのに黙っている」ことが、罪になるのか
先生、また来てしまいましたわ。
あら。さっきから、スマートフォン、気になっていらっしゃいますか?
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いいんです。責めているわけじゃないんです。むしろ、その仕草こそが、今日の主題そのものですわ。
あの人、既読をつけるんです。ちゃんと、読むんです。それなのに——返してこない。
「既読」という二文字だけを、私の画面に、静かに置いていく。
昨夜もそうでした。深夜零時七分に、既読。それから朝まで、何も反応無し。私はその「無」を、七時間ぶん、抱えて眠れませんでしたの。
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ねぇ先生、観測問題って、ご存知ですか。
量子力学にはこういう考え方があるそうですね。観測されるまで対象の状態は確定しない。猫は、箱を開けるまで、生きても死んでもいる——あの、有名な思考実験です。
でも私、逆のことが起きていると思うんです。
「既読」というのは、観測されたという通知なんですよ。あの人は確かに、私のメッセージを観測した。箱は、開けられた。にもかかわらず——結果が、返ってこない。
観測は成立したのに、波動関数が収縮しないんです。つまり、「返事があるかないか」という無数の可能性が、いつまでも一つの現実に決まってくれないんです。
私のメッセージは読まれた瞬間から、宙吊りにされたまま。返事があるのか、ないのか。怒っているのか、忙しいだけなのか。すべてが確定しないまま、私の側でだけ、延々と揺れ続ける。
ねぇ先生。これ、一番、疲れる状態だと思いません?
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それと構造的な問題もあって…
かつて手紙の時代には、届いたかどうかすら曖昧だったからこそ、私たちは「届いていないかもしれない」という美しい想像の余白に守られていたの。
けれど、現代の私たちは違うのね。「読まれた」という逃げ場のない確信だけが与えられ、肝心の答えだけが蒸発していく。知らなくていい事実まで知らされることこそ、最大の暴力だとは思いませんか? 情報が増えたことで、かえって苦しみが精密になったという…ねぇ、先生…
物理学では観測は情報を得る行為。でも、既読という観測は私から情報を奪っていくわ。何も返ってこないという事実だけが、くっきりと確定していくんですの。
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でね、私、考えたんです。
―通知を、切る―
これだけなんです。あの人が読んだかどうかを、私が知らなければいい。箱を、開けなければいい。
そうすれば、あの人のメッセージは、シュレディンガーの猫のまま、そっとしておける。返ってくるかもしれないし、こないかもしれない。どちらでもある、宙吊りのあの静けさのまま。
不確定性を私の側に取り戻すんです。
これ、逃げみたいに聞こえます?でも違うんですのよ、先生。観測をやめることは、放棄じゃないんです。相手に、収縮させる責任を返すことなんです。返事をするかしないか——それを決めるのは、あの人の仕事なんですから。
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通知を切った朝は静かでした。
画面に、あの二文字が置かれることもない。「無」を七時間ぶん抱えることも、ない。私はただ、送っただけ。あとは、あの人の箱の中の話。
空いたところに、ちゃんと自分が戻ってきたわ。窓辺の光とか。淹れたての一杯とか。誰にも観測されていない、私だけの、ささやかな朝…
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最後にひとつ訂正を。
「既読無視」って、返事をしない人のことではありませんのね。
観測する権利だけ行使して、収縮させる責任、つまり「相手がどう思っているか」という現実を確定させる責任を——放棄している人のことですのね。
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あら、先生。
やっぱり、さっきから画面のほうばかり…