沈黙の情報量
The Information Content of Silence
02: なぜ何も言わない人が、一番多くを語るのか
先生、また来てしまいましたわ。
今日はね、沈黙について考えていたんです。
*
あの人ったら、何も言わないんです。
怒っているのかどうか、聞いても「別に」。悲しいのかどうか、聞いても「ううん」。どう思うか、聞いても——少し間がを置いたあげく、「なんでもない」って。
なんでもない。
ねぇ先生、「なんでもない」ほど情報量の多い言葉を、私はほかに知りませんわ。
*
クロード・シャノンという人がいるそうですね。情報理論の父と呼ばれる数学者で、1948年に「情報量」を数式で定義した人のようですね。彼によれば、情報量とは——予測を裏切る度合いのことなんですって。
起こりやすいことが起きても、情報量はゼロに近い。でも、起こりにくいことが起きたとき——情報量は、跳ね上がる。
これを“沈黙”に当てはめると、恐ろしいことになりましてね。
普段よくしゃべる人が黙った瞬間の情報量は——理論上、その人の語彙すべてを足し合わせたより、大きくなりうるんです。
先生…「なんでもない」って、実はものすごい情報量じゃないですか。
*
さらに問題があって。
シャノンはもうひとつ、大切なことを言っているそうです。“ノイズ”の話です。
情報は送信されるとき、必ずノイズを拾います。受信した側はそれが「信号」なのか「ノイズ」なのか、自分で判断しなければならない。
沈黙も同じなんですって。
あの人が何も言わないたびに、私はそれが信号なのかノイズなのか、懸命に判別しようとします。怒ってる? 疲れてる? それとも——ただ、お腹が空いてただけ?
この判別作業が、どれほどのエネルギーを消費するか…!
先生、私が疲れているのは、沈黙を聞いているからじゃなかったんです。沈黙をずっと翻訳し続けていたからだったんです。
*
私ね、ある朝、気がついたんです。
いつものように誕生日プレゼントで姪にもらったお気に入りのアールグレイを淹れながら、あの人の昨日の沈黙を、またぐるぐる考えていて…ふと、あの華やかなベルガモットの香りが、まったくしていなかったことに。鼻はちゃんとここにあるのに、脳が沈黙の翻訳で手一杯で、香りを処理する余裕がなかったのね、きっと。
シャノンはこれを「通信路容量」と呼んでいるらしいわ。ひとつの回線が一度に運べる情報量には、限界があるってこと。
そう、私の回線は、あの人の沈黙でいっぱいだったわ。アールグレイの香りも、窓の外の光も、全部、入ってこなかったの。
*
ただ…受信をやめた朝は、違ったんですよ。
アールグレイがちゃんと香りましたの。お気に入りのカップの重さが、手のひらにちゃんと伝わってきたんです。窓の外で雀が鳴いていることにも、何年かぶりに、気がついたんです。
これが、チャネル、つまり通信路に空きができた状態なんですね。
ただ、区別が要りますのね。ただの沈黙は、そのまま置いておけばいい。翻訳しなくていい。疲れるのは、沈黙のふりをした"要求"のほうなんです。
*
最後にひとついいでしょうか?
「何も言わない人」とは、情報を与えない人のことではありませんのね。
翻訳のコストを、すべてこちらに押しつけている人のことですのね。
*
あら、先生。
さっきから、お返事がないみたいですわね。